« February 2012 | Main | April 2012 »

March 10, 2012

重なる重なる

時にはいろんな事が重なるもんで・・・

ここしばらく結構な勢いでね。
またやっと落ち着こうかって時に風邪っぽいんだか花粉だかでぼーっとする始末。

そしてやっと元気になってきたかな。
というわけでサボっていたブログを書いてます。

万が一、ご心配頂いていた方がいらっしゃったら本当に申し訳なかったです。
ごめんなさい。

3月に入り、怒涛の3連チャン(お仕事)がありました。
そのうちの一つはなんと!! ついに!!
大御所 石田勝範さんの中国映画の音楽のレコーディング。

超メジャーな外国映画祭にも出品予定だそうで。
今からもうドキドキワクワクです。

もう一つは何かと注目のAKB関係。

どちらも詳細は少し後になりますがお楽しみに。

と、その一番ハードだった3日連続長時間レコーディングの2日目に叔母が亡くなりました。
約3年間、肺ガンと闘ってきましたがついに力尽きてしまいました。

2月上旬より、緩和ケア病棟、いわゆるホスピスに入院し前日に65歳のお誕生日を迎えました。

仕事の前にケーキを持って母と病室に寄り、先生や看護師さんも集まって下さったのでバイオリンでバースデーソングを演奏し、皆さんは歌って下さいました。

熱があったのであまり意識ははっきりとはしていませんでしたが、呼びかけるとうなづいてくれました。

入院した時はまだ少しは歩けるくらい元気で外出許可をもらって大好きだった鰻を食べに行こうとまで言っていたのですが、一週間位で容態は急に下降線に。

一度はラウンジで、簡易カラオケを持ち込み演奏をしました。
本当に喜んでくれましたが、2曲ほどで疲れてしまったようです。

クラシック音楽が大好きだった叔母は最期まで私のファンでいてくれました。
バイオリン弾こうか?というと手まで合わせて拝むように喜んでくれたほどです。

ガンを宣告され余命2年と言われてから辛い抗がん剤治療を受けてきました。
プライドが高く、おしゃれが大好きな叔母はおよそ病人には見えない、頭のてっぺんから靴、バッグに至るまでバッチリとキメて毎週病院へ通っていました。

周りの方々に素敵ね、と褒められることが生きがいだったようです。
でもそれが2年と限られた命を3年近くまで延ばせた力だったように思います。
お医者さんがびっくりするほどガンの進行は抑えられていたそうです。

叔母と同じマンション内に住む母と私はかなり振りまわされ、私はその我儘ぶりに辟易し一時期は距離を置いたほどです。
何かと言うと、私は病人なんだから、あとちょっとしか生きられないのに、という殺し文句を振りかざします。

そんな中でも母は献身的にマリア様か?と呆れるほど優しく尽くしていました。
姉妹というのはそういうものなのかとも思いましたが、祖母の介護に始まり、祖父、年が下の妹の面倒まで看る母には本当に頭が下がりました。

本人いわく、どうせやるなら気持ちよくだそうで。
後悔はしたくないとのことです。

年が明けた頃、これ以上もう打てる薬がなくなったとお医者様から言われ、抗がん剤の効き目はあったのですが、これ以上は逆に命の危険を伴うとの判断で治療は打ち切られることになりました。

もう治療ができないとは、死を待つことを意味します。

この宣告の時一緒に聞いていたのですが、先生が病室を出られた後ポツリと。
がっくりきちゃったなぁ。

本当に残酷です。

私が思うにこの瞬間に、今まで頑張って張って張って張り詰めてきた糸が切れたような気がします。

ぎりぎりまで緩和ケアには入院したくないと言っていたのに、家で過ごすことが辛くなったようです。
何種類もの薬の飲み方がわからなくなったり、ご飯も一人では食べられなくなりました。
長時間目を離せないので母は日に何度も階違いの部屋を往復。
夜中に電話が鳴ることもしばし。
母はまんじりともしない夜を過ごしていました。

そしてついに叔母は入院したいと。

この頃になると今までの傍若無人ぶりが嘘のように消え、何をしても「ありがとう」か「ごめんね」でした。

最後の抗がん剤の副作用もあって体調が悪いという見方もあったので、元気になったら外出して美味しいものを食べに行こう、頑張ってまたお家に戻ってこようね、と言い、ベッドの部屋にテレビを動かしておいてほしいというリクエストに、母と私はベッドの位置まで動かして待っていました。

病院はとても快適で気に入っていたようで、入院してから一週間ほどはそこそこ元気で表情もとても穏やかでした。
母は毎日、私はできる限り病院へ遊びに行きました。

先生との面談で数日後に車で鰻屋さんへ行く段取りまでつけていたのですが、容態が急に悪くなってしまい、外出は中止に。
鰻はデパートで買ってきて3人でラウンジで食べました。

ちゃんとした物を食べられたのはそれが最後で、その後は飲み込む力がなくなってしまい、トロミをつけた物でないと口にできなくなりました。

痰が絡むようになり、水分を取るのは肺に入ってしまう恐れもあり危険だったのですが、どういうわけか氷をカリカリと噛むのが好きで、ぜいぜいしながらも氷、氷と。

お誕生日の前日は兄と甥も駆けつけてくれ、兄にお姫様抱っこをしてもらい車椅子に座らせてもらってとても喜んでくれました。

スヌーピーが大好きだった叔母に会長からは大きなぬいぐるみを頂き、本当に嬉しそうでした。

人懐っこく、お茶目な叔母は病院でも明るく、看護師さんたちにも愛想をふりまいていて人気者?!でした。
スヌーピー好きは有名でグッズを褒められては嬉しそうにしてました。

そんな元気があったのにお誕生日の日に高熱が出てしまい、母は病院に泊まりこみました。

翌日の朝はもう指先では脈が取れないほど血圧が下がってしまい、私は後ろ髪をひかれながら、もうちょっとだけ頑張って待っててと祈りながら仕事へ出かけました。

中国映画のレコーディングが始まり、2度目の休憩の時に丁度母から会長に電話が入りました。

覚悟はしていたものの、やはり平常心を装うのはきつかったです。
休憩明けの曲はスローで悲しげな曲で、参りました。

曲終わりで一粒だけ涙がこぼれてしまいましたが、どうにか周りにはバレずにすみました。

一度溢れてしまったら涙は止まりそうにないので、その後は淡々と、叔母はきっとみまもっててくれる、力をくれると信じて頑張りました。

帰りに病院に寄り、車椅子や母が持って帰れなかった荷物を受け取りました。
家に着き、ほどなく兄も駆けつけてくれたので叔母の部屋へ行くと、もともと美人だった叔母がお化粧してモデルのような美しさで、まるで眠っているようでした。そう、微笑んで。

頬に触れるとやはり冷たく、急に現実だと認識され涙が溢れました。

翌日は前日に録り切れなかったバイオリンソロ曲のレコーディングを午前中から行い、それに続いてAKB。

こちらはレガートミュージックに新しく所属した二人の作曲家の音楽。
これもかなりハードでしたが頑張ってなんとか無事に終わりました。

その後はお通夜、告別式などの合間に仕事をしながら、この時期の風物詩である確定申告との格闘。

花粉攻撃にも遭い、ただでさえ苦手な数字との闘いは辛すぎました。

昨日は知恵熱まで出る始末。

鼻炎の薬を飲んだので運転は控え、電車で仕事へ行きましたが、もうかなり元気。

雨にも負けず、申告書も提出してきたし、気分もすっきりです。

叔母の家の片付けを少しづつしていると、私の学生時代からのコンサートのチラシやプログラム、CDのチラシなど、私がもう持っていないものまで出てきました。

自慢の姪だったことを誇りに思い、叔母が最期に喜んでみせてくれた音楽の力を信じて、これからも心をこめてひとつひとつの音を大切に演奏していきたいと思います。

| | Comments (2)

« February 2012 | Main | April 2012 »